夕張市立鹿島小学校
昭和3年10月1日開校 平成10年3月31日閉校
平成20年5月撮影
炭鉱で栄え一大集落があった夕張市鹿島
昭和48年の大夕張炭鉱閉山により人口も激減
最盛期2万人もの人が暮らしたこの地区も
平成9年には300人に
そしてシューパロダムの建設により
この地が水没地域となるため平成10年全戸移転する
写真は国道452号線鹿島地区(大夕張)の芦別側からの入り口
右手には往時三菱大夕張鉄道の終点大夕張駅があり
左手には炭鉱住宅地が広がっていた
住宅の基礎や それぞれの地区へと続いていた
寂しく残る舗装道路を横目に進んで来ると
ご覧の看板が目に入る
ちなみに写真左の建物は
ダム工事関係の建物と思われ 数年前に通過した時には
無かったものである
跡地へとやってきた
鹿島地区自体全ての建物が解体撤去された今
当然のことながら学校の建物も残されてはいない
何も見当たらない風景の中を進んで来たせいか
ここに昭和26年6月の鹿島東小学校分離時
2530人もの児童が通う小学校があった事を
想像出来なかった
奥に目をやると何やら記念碑らしきものが幾つか建てられている
「鹿島小学校碑」と刻まれたものと
「夕張市立鹿島中学校閉校記念碑」と刻まれたものであった
小学校の碑の裏側
最後の在校生の名前や沿革が刻まれている
台座に置かれている箱の中には
管理されている「思い出ノート」
平成8年3月閉校の鹿島中学校の碑
昭和22年5月小学校に併設開校した中学校は
児童数増加のため昭和24年12月
常盤町に独立校舎として移転する
しかし炭鉱の閉山により
昭和53年10月再び併設されることとなる
もう一つ並んでいた碑は
平成9年7月夕張シューパロダム対策協議会制作の
「ふる里 大夕張の碑」であった
これは何故か小学校の碑の横に置かれた
かつての鹿島中学校の門柱とのこと
解体途中に誰かがここまで移動したのだろうか
その碑達が並ぶ位置から振り返り
大きな校舎があった場所を眺める
ただ広々とした空間が見えるだけだ
校舎のあった辺りまで来ると
何やら児童の作品のようなものを発見
少し読みづらかったが
第47回卒業記念 友情のシンボル
昭和49年11月3日と なっているようだがどうか
平成10年
シューパロダム建設により閉校となる
閉校時児童数12人であった